6月16日 ステイウィズミー

幼稚園をあがったころ押し入れからスーファミを引っ張り出してからというもの、私の人生は常にゲームとともにあった。

とはいえ生来のガサツさもあいまって、何をするにも手なり・・・で通して、クリアしたゲームを数えれば両手で足りるほどであったし、RPGを隅から隅まで探索したり、対戦ゲームで戦略を立てて戦うような、ゲーム体験の最も脂ののった部分を味わうことは(特に幼いころは全く)なかった。

宿題もせずに毎日毎日居間のテレビを占領していたが、当時ネット環境が整っていなかったことなどが災いし、レトロゲーム特有のヒントの少なさを突破することもなく、キャラごとの特徴や各技の対策などについて経験をもとに研究することもできず、なんだかんだ楽しんでいたが、その実ガチャガチャボタンを押すだけの、特技にはなりえず趣味というにも怪しい、単なる習慣としてのゲームであった。

やがて要らぬ知恵をつけ、なにをするにも事前に調べるような可愛くない大人に成長した時にはすっかり友達もいなくなり、いつか誰かと遊ぶ日を夢見てコンボや立ち回りの解説動画を見あさって、かつての友達など今なら端からぼこぼこにできるまでに成長したそのスマブラの実力も、もはや誰にも見せることはないのだ、と、ふと思って足元が不安定になった。

そんなある日、死んだ目でトレーニングモードをこなし続ける私のもとに、一足先に高校からいなくなり、やがて私から一年遅れて大学生になった友達から突然のラインが届いた。
久しぶりのやりとりを楽しむうちに、ゲームの話になった。

お互いの住所には大きな隔たりがあり、足の少ない学生ゆえに、それほど頻繁には同じ部屋では遊べない。
何かちょうどいいオンラインゲームはないかと質問したところ、彼が答えたのはとあるFPSゲームのタイトルだった。

それがすべての始まりであった。APEX legendsは私の心をわしづかみにした。何をするにも未体験の領域で、すべてが新奇性にあふれていて、彼についていくだけで精一杯ではあったが、それでも少し遊んだだけで「これこそ私の求めていたゲームだ」と思った。

何が良いかといえば、それが見知らぬ人との対戦ゲームだということである。
きょうび珍しくないありふれた機能ではあるが、私はこの機能について以前まで、素性の知らない人に下手なプレイを見せて何か言われたりしたらどうしようと食わず嫌いしており、全くと言っていいほど触れてこなかった。友達の誘いがなければ絶対に触れることはなかっただろうが、どういうわけだか一度触れるとそんな小さなマイナスは吹き飛んでしまった。

死んだ目でトレーニングモードにこもっていた私にとって、対人戦の刺激はあまりにも強かった。
私の動きをアルゴリズムでもって冷徹に処理するCPUとは全く違う、生きた人間との読みあいが染み渡った。
見知らぬ人とのオンライン対戦ゲームを食わず嫌いしていたのが、少しのきっかけとともにすっかり裏返り、もはや人との対戦がなければ生きていけないほどにまで性癖がゆがんでいった。

そこからは毎週のように彼と戦場に繰り出し、そのたびに力量の差を感じ、少しでも追いつくために練習した。
無防備な敵なら簡単に倒せるようになった。一週間後の協力プレイでは彼を助けるシーンもあった。
遠くの的にも当たるようになった。二週間後に一緒に遊ぶと彼も驚くキルができた。
複雑に動きながら打つ練習をした。一か月の練習の成果を彼にぶつけ、ときに上回ることもあった。

やればやるほど上手くなる。
pcゲームは録画が簡単で、負けた理由がすぐにわかる。スキルベースマッチングによって、近い実力のプレイヤーと切磋琢磨ができる。
考えて実践してそれが形になる喜びを、ゲームの世界で強く思い知る。

一か月、二か月、一人で遊ぶ時間が増える。次はいつ誘われるのか。次に会った時にはどれだけ驚いてもらえるか。待ち焦がれながら射撃訓練場を駆け回る。
それとなく誘ってみる。数日たっても返事がない。きっと忙しいのだと自分に言い聞かせる。

誰かに見せつけることを夢見て練習を続ける。結局やることは以前と何も変わっていない。
いつでも人間と戦える分いくらか心が救われているが、それでもすっかり目は死んでいる。

私は練習を続ける。完成して誰がほめるわけでもない動きを身に着ける。
練習とは名ばかりで手なり・・・のプレイに知識が加わっただけのただの習慣である。

きっかけはいろいろでも、最後にはひとりになる。友達付き合いのはずが、何故だか孤独な居残り練習に形を変えている。
もう楽しいのかすらよくわからないが、それでもゲームをやめないのは、子供のころからの習慣だからである。
私の人生はゲームとともにあるのだ。