7月4日 お前それ十年後友達に蒸し返されても平気か

「後悔の無いように生きなさい」というのはもはやことわざのように人々の生活に染み付いた言葉である。
人生の先輩として子供に何か一言言わなければならないときには、とりあえず「後悔の無いように生きなさい」と言っておくのが安パイ・・・である、と多くの大人に信頼を寄せられている非常に使い勝手の良い言葉であり、大人がみんなそう思っているのだからある種の真理なのだろうと思う。
多くの場合この言葉は「やらない後悔よりやる後悔」のような言葉と合わせて「どんどん挑戦していこう」の文脈で使われていて、耳にタコができるほど同じことをいろんな人に言われてきた子供たちは、「はいはい、もうわかったから黙っといてくれや」みたいな顔をしながらも、やる後悔を恐れずに挑戦した方がよい、という価値観をうっすら抱えて生きていくことになる。
後悔の無いようにと言いながらもやる後悔については受け入れさせるというのはなんだかめちゃくちゃなようにも見えるが、何となく自分の人生や周囲の人間の人生を見渡した時、人生において重大な後悔というのはやらない後悔の方が多そうであるし、やるかやらないか迷ったときには挑戦してみよう、というのが「やる後悔を恐れるな論」の核であり、その点については同意するほかない。

しかし、そうはいってもやっぱり「やる後悔」だってあるわけで、どんどん挑戦しろと言ったって、事前に後悔するのが分かるのであれば当然やらない方がいい。
後悔するのが事前に分かるならやらないだろ、というのはあまりに甘い考えである。
上記の通り、やるかやらないかの分岐点に立たされる場合は「成功するかはわからないし、失敗すれば後悔するかもしれないけど、挑戦しなければ成功はない」という論理から、やった方がよいという結論に至るのであるが、問題は「迷わずやる」場合にある。
進学とか就職とか、どこからどう見ても人生の分岐点になりそうな問題に関しては誰でも勝手に正しく迷えるのであるが、一人称を「わし」にしたり、クラスのグループラインに歌声を投稿したり、変な語尾をつけてしゃべったり、思い出すだけで恥ずかしい、どうしてあんなことをしてしまったんだろうという子供の頃の思い切った行動は、その「小規模さ」ゆえにやる・やらないの選択肢が見えず、計画的だが衝動的で、「目立つ」「褒められる」といったあまりに短絡的な仮説をもとに、思い立ってすぐ発動するものが多い。
恥ずかしい記憶の多くは、「一度寝かして後から確認すれば絶対にやらない方がいいと分かる」ものばかりなのであるが、多くの場合そんな面倒な手続きはなされず、ほんの軽い気持ちでやったことがピュアで無邪気でつやつやの心に消えない傷を残すのである。

消えない傷に苦しむ大人として今の子供たちに伝えるべきことは、「後悔の無いように生きなさい」ということである。
それは、「やるかやらないか迷ったら、やってみるのがよい」という意味ももちろんあるが、「突然何かがやりたくなったら、いったん頭を冷やして本当にやった方がいいのか考えてみよう」という意味もある。
選択肢を出していったん悩んでみてから挑戦するのと、「何事も挑戦挑戦 ♪ 」という態度で勢いのままに挑戦するのとでは全く意味が変わってくるのである。