わざわざ門の上に捨てるか?

芥川龍之介羅生門』を読んだ。

 あらすじ
リストラされた下人が食うに困り、犯罪に手を染めようとしていたところで、死体から髪を引き抜く老婆と出会う。その老婆の言った言葉のうち、「やらないと飢え死にするだけだから仕方がない」という部分に興味を示した下人は、ならばと老婆の揚げ足を取り、老婆から着物をはぎ取って夜の闇に駆け出していく。


 一般的にこの物語で最も印象的なシーンと言えば、老婆が死体から髪を引き抜くシーンか、あるいは「この髪を抜いてな......」と、髪を引き抜く理由を語るシーンだと思われる。


 火の光でかろうじて照らされた羅生門の内部には、泥人形のような死体がいくつとも知れずに転がっている。その中でうずくまり、人知れず死体から髪を引き抜く猿のような老婆のすがたが、下人に得体のしれない邪悪を感じさせる...という名シーンだ。


 名シーンなのだと思う。


 感想を書くために何度か読んで、ここが名シーンっぽいなと思って良さをこじつけた。


 読めといわれて読んだ本の、書けといわれて書いた感想だ。そこに俺はおらず、ただ部分点をかすめとるための網目があるだけだ。


 一行一行読み下していくような、読書におけるスタミナが俺にはない。読めと言われたら急いで読む。


 あらゆる修飾語を読み飛ばし、主語と述語だけを拾い上げると、無味乾燥なあらすじだけが浮かび上がる。そこから俺は、授業のテーマにちょうどいい疑問点をひねり出すための作業に移るのだ。


 そういう読み方をした結果、かの名シーンについて、文学表現から情景を呼び起こす作業をこなす前、俺の脳内の羅生門では、老婆といくつもの死体が箇条書きみたいに並んでいるのだった。



 ところで死体を見つけたあと、どうして門の上に運ぶのが習慣化したのだろうか。


 『羅生門』の本文を読んだ限りでは、羅生門の内部の死体のころがっているエリアには、はしご以外で侵入する方法がない。とすると、羅生門の上にみつけた死体をころがすために、わざわざ死体の重みを背負い梯子をよじ登ったということになる。


 生きた人間のようにしがみついたりバランスをとったりしてくれるわけもなく、数十キログラムの重量を門の上部までである。


 誰がそんなことをするのだ?何メートルだ?2メートルでも嫌じゃないか?


 そもそも、死体をそのままにするわけでもなく、なぜ羅生門の上に捨てたのだろうか。



 当時の庶民の一般的な葬送方法は風葬(死体を埋葬せず外気中にさらして自然に還すという遺棄葬)であり、死体を室内に放置する必要があまりない。


 羅生門に死体を遺棄することの利点を考えると、都という居住区にほど近く、人の目に触れにくく、火葬や埋葬のようにコストがかかりにくいから、というものが挙げられる。


 一般的な葬送方法だという風葬を行えば、人の目に触れることを除けば羅生門に死体を遺棄する必要はなくなる。なぜ羅生門に死体を放置したのだろうか。


 これは、羅生門に遺棄された死体は、人の目に触れさせたくないものだったから、とすると、納得できるように思う。



 老婆いわく、羅生門の中に転がっていて老婆に髪を抜かれていた死体の女は生前、蛇を魚だと詐称して売りさばき生計を立てていた。また、死体から髪を抜いていた老婆の発言を信用するならば、「ここに居る死人どもはみな、そのくらいなことをされてもいい人間ばかり」らしい。


 つまり、多かれ少なかれ人道に反した行いをしていた者たちが、死後ここに遺棄されているのだと分かる。羅生門の上部には、身寄りのない犯罪者の死体が集められていた。


 その蛇を売っていた女がどのように死んだか、詐欺の真実はどのくらいの人に気付かれていたのか、など、個々の事例について分からないことは多い。


 しかし、例えば彼らが人道に反した行いをすることで誰かの恨みを買っていた人たちだとするならば、その死体を人の目に触れる場所に置くことは難しいのではないだろうか。


 うらみのある誰かが髪を引き抜くどころではない破壊行為をするかもしれない。悪人であったことを考えると、風葬・鳥葬のように葬送の形式をとることも困難だろう。となると、罪のない人々の遺体とは扱い方を変える必要がある。


 都からほど近く、それでいて人々の生活する居住区とはレイヤーを異にする「梯子の上」という特殊な空間に投げ込むことが、彼らの死体に対する最も適した遺棄の方法だったのではないだろうか。


 以上のことから、羅生門へ死体を捨てる習慣は、「特定の立場の人間」の死体に対する習慣だったのではないか、と考える。



 本当?

7月6日 唾つけとけば治る

「なんだかうまくいかないな~」と思うようなことが立て続けに起きて、その中のいくつかは完全に私の過失によるもので、だいぶ食らって・・・・いた。

数日前に失くしてすっかり困って小一時間探した挙句あきらめたsurfaceのペンの電池が、何気なくひっくり返した座布団からひょっこり顔を出した瞬間に、私のストレスが閾値を超えて、すべてのプログラムが停止してしまった。

これまで何度も心が傷ついてダウンすることはあって、今こうやって五体満足で生きているわけだから、倒れるたびに何らかの形でよみがえってきたはずなのだけど、どうにもその方法が思い出せないので、むやみに食べたり寝たりを繰り返し金と時間を捨てて、立ち直るはずがむしろ落ち込んでいる。

気分転換にでもしようと頼んだタコ焼きがあんまりおいしくなかった時には、家に十分な備蓄があるのにわざわざ出前を頼んで食費を無駄にしたことを後悔し、その流れで漫画とか本とか買い込んだこととか、しばらくバイトしていないこととか、何となく負い目に感じていることが次々と噴き出してくる。

こんな感じでやることなすこと裏目に出て、何をしたら元に戻るのかわからなくて苦しむのだけど、思えばこれまで気分転換・・・・と称した行動で気分が転換されたことなんて私の把握する限りは一度もなく、そうなると「どうやって立ち直ってきたか」の答えになるようなものはどこにもないわけで、しいて言うなら「時間」しかなく、あとは時の流れが私の失敗を薄めて薄めて見えなくなるまで、私にできることは衝動的にお金を使ったり変なタイミングで寝たりするのをできるだけ我慢することぐらいである。

いつも立ち直り方に悩んで失敗を重ねてしまうので、こういった経験は記録しておいた方が今後のためにもなるのでブログに残しておく。

とりあえず今回の経験について覚えておくべきことは、落ち込んだ気持ちを一気に回復させるようなものはどこにもないということと、食べたことのない店の出前を頼むのは元気な時にした方がよいという事であった。

7月5日 ギリ日記

今日はいろんな人と絡む日で、基本的には楽しかったのだけど、途中いくつかコミュニケーションエラーが起こって変な空気になったりして、俺ってもう少し賢いと思ってたのにな、と落ち込んだりもした。

 

他人のやってることに口出しするのは良くないなといつも思ってるけど、ついついいらないことを言って、あとから見たら完全に「これ口出しじゃん」となるようなことが多い。

 

後悔しないか考えて動こう、って書いたのに昨日今日でもう忘れている?と思ったけど、実際は少し違って、「こうありたい」と落ち着いた頭で考えれば分かることが、行動しながらだとできないのだ。

 

もはや次の日の朝が終わろうとしていて日課の体裁を保てないので本日はここまで。

7月4日 お前それ十年後友達に蒸し返されても平気か

「後悔の無いように生きなさい」というのはもはやことわざのように人々の生活に染み付いた言葉である。
人生の先輩として子供に何か一言言わなければならないときには、とりあえず「後悔の無いように生きなさい」と言っておくのが安パイ・・・である、と多くの大人に信頼を寄せられている非常に使い勝手の良い言葉であり、大人がみんなそう思っているのだからある種の真理なのだろうと思う。
多くの場合この言葉は「やらない後悔よりやる後悔」のような言葉と合わせて「どんどん挑戦していこう」の文脈で使われていて、耳にタコができるほど同じことをいろんな人に言われてきた子供たちは、「はいはい、もうわかったから黙っといてくれや」みたいな顔をしながらも、やる後悔を恐れずに挑戦した方がよい、という価値観をうっすら抱えて生きていくことになる。
後悔の無いようにと言いながらもやる後悔については受け入れさせるというのはなんだかめちゃくちゃなようにも見えるが、何となく自分の人生や周囲の人間の人生を見渡した時、人生において重大な後悔というのはやらない後悔の方が多そうであるし、やるかやらないか迷ったときには挑戦してみよう、というのが「やる後悔を恐れるな論」の核であり、その点については同意するほかない。

しかし、そうはいってもやっぱり「やる後悔」だってあるわけで、どんどん挑戦しろと言ったって、事前に後悔するのが分かるのであれば当然やらない方がいい。
後悔するのが事前に分かるならやらないだろ、というのはあまりに甘い考えである。
上記の通り、やるかやらないかの分岐点に立たされる場合は「成功するかはわからないし、失敗すれば後悔するかもしれないけど、挑戦しなければ成功はない」という論理から、やった方がよいという結論に至るのであるが、問題は「迷わずやる」場合にある。
進学とか就職とか、どこからどう見ても人生の分岐点になりそうな問題に関しては誰でも勝手に正しく迷えるのであるが、一人称を「わし」にしたり、クラスのグループラインに歌声を投稿したり、変な語尾をつけてしゃべったり、思い出すだけで恥ずかしい、どうしてあんなことをしてしまったんだろうという子供の頃の思い切った行動は、その「小規模さ」ゆえにやる・やらないの選択肢が見えず、計画的だが衝動的で、「目立つ」「褒められる」といったあまりに短絡的な仮説をもとに、思い立ってすぐ発動するものが多い。
恥ずかしい記憶の多くは、「一度寝かして後から確認すれば絶対にやらない方がいいと分かる」ものばかりなのであるが、多くの場合そんな面倒な手続きはなされず、ほんの軽い気持ちでやったことがピュアで無邪気でつやつやの心に消えない傷を残すのである。

消えない傷に苦しむ大人として今の子供たちに伝えるべきことは、「後悔の無いように生きなさい」ということである。
それは、「やるかやらないか迷ったら、やってみるのがよい」という意味ももちろんあるが、「突然何かがやりたくなったら、いったん頭を冷やして本当にやった方がいいのか考えてみよう」という意味もある。
選択肢を出していったん悩んでみてから挑戦するのと、「何事も挑戦挑戦 ♪ 」という態度で勢いのままに挑戦するのとでは全く意味が変わってくるのである。

7月3日 時間をドブに捨てるにしても良いフォームで捨てた方がいい

ハーバードだ、海外の論文だ、などと言われると典拠もみないですっかり信じ込んで、理屈がどうとか全く考えずに驚くべき事実だけを自分のものにするくせに、幽霊だ、前世だ、などと言われたときにはハナから信じるつもりもないような顔で一蹴する。

映画だとかお化け屋敷だとかは人並みに怖がるし、夜道を歩いて遠くにぼんやり何かが見えたりすると不安にもなる。

しかし、その辺の人がまるで見てきたかのようにおどろおどろしく幽霊の話をしているのを見ると、「お前、なにがねらいだ?」と唇に糸が引くように笑って相手の魂胆のことばかり考えてしまい、そうなるともはやその人の声なんて耳には入ってこなくなる。

自分のこういう態度を客観的にみるとろくでもないなと思う。

こういうことをすぐに言うわりに好き嫌いをすぐに決めてしまうのはあまりにも自分勝手であるから、自分の好みを少し見つめて分析し、物を見るときの一つの指針として信頼のできるものに作り替えていく必要がある。

 

 

科学は信じ、自分の感覚も信じ、金のかかったフィクションには感情移入し、プロの怪談なら最後まで聞くのに、どうして幽霊の話をするその辺の人にはあたりがきついのか。

何を受け入れて何をはねのけるのか自分の中で一つ一つ分類してみたところ、私が目に見えないものを受け入れないときにはその伝え方が「露骨」であると判断していることが分かった。

つまり、ネット記事だろうが「フィクションです」と書いてあろうが、「単に怖い話をしている」ように見えるならばわりに受け入れやすいのだけど、怖い話を怖がりながらしゃべっていたり、「まあなんてことない話なんだけどね」とでも言いたげな表情を作っているのが伝わってきたり、内容の外側の「作為」が見えてしまうと引いてしまうのだ。

 

 

金のかかったフィクションならば「わざとらしさ」は排すだろうし、プロの人も話の上手な人もわざとらしくならないようにしゃべれるが、その辺の人がみんなそんな技術を持っているわけもなく、他人に話を披露する時に良かれと思って付け加える演出が裏目に出て、(たとえその人の目に本当にお化けがうつっていたとしても)「お前俺を怖がらせようとしているな」と聞き手に警戒心を与えてしまう。

これは日常会話でも、あるいはホラー映画でも漫画でも小説でも同じで、もっと言えばありとあらゆるフィクションにまで拡張しても、面白くないと思うときにはいつでもわざとらしさを感じているのではと思う。

 

 

一連の分析の結果、物語は単なる物語であるべきで、どう生きるべきかとか人類はこうあるべきだみたいな思想も、楽しい・悲しいなどといった感情も、そういうのは内側から湧き出すから面白くて、見るもの聞くものの内面を刺激して気づいた時にはそういう気持ちになるように仕向けるならまだしも、「こう生きろ!」「こう思え!」と無理やり押し付けるのは面白くない、というのが私の好みであるとわかった。

「好みでない」とだけ言ってはねつけるのはあまり良い態度とは言えないから、「いかに好みでないか」について語れないのならその対象について語るのはよした方がよく、どうしてもその「好みでなさ」を語りたいのなら頭から終わりまでしっかり見届けるべきである。

匂いや食感が気に入らないことについて、口に含んだだけで吐きだして文句を言う人より、かみ砕いて飲み下してから文句を言う人の方が納得感がある。

食わず嫌いはもってのほかで、嫌いなら嫌いなだけの理由を示す必要があるから、とりあえずはそれが好きな人と同じように味わってみる。

意外とすんなり呑み込めて、気づけばその匂いに癖になってしまうことも時にはあるし、挑戦しないとその機会はないのだとすれば、ぱっと見だけではねのけるのは損である。

 

 

嫌なものは嫌で、最後まで見て面白くなる保証もないし、そそられなければ目をそらすのはなかなか止まらないとは思う。

それでも怖いもの見たさであっても見るものの幅が広がって、ものを評価するための目が鋭くなるならば、ときには挑んでみるのがよいだろう。

7月2日 そんなに言うなら隣の芝の色みせてもらいなさい

引きこもってうずくまって、鬱々とした自問自答を繰り返すのは、その成果を他者とのやり取りで発揮するためであったはずなのに、ここ最近そのような機会はなく、反省の目的が再挑戦から反省そのものにすり替わってしまった。

そうやって答え合わせのない問題に挑み続けていると頭がおかしくなっていき、言い知れない不安に飲み込まれて心拍数が跳ね上がって眠れなくなる。

今自分が持っているものすべてが醜く見えて、ここではないどこかに居場所を見つけなければならないような気がして、そうすると部屋の外という文字列が何となくさわやかに見えて、任意の対面授業に参加するのを口実に、私は外の世界に踏み出したのだった。

 

 

部屋の中はボタン一つでカラッと除湿されて涼しくて、悪天候を気にすることもないし、疲れたらそこらに寝っ転がれるうえに、充電が切れることもない。

冷蔵庫には飲み物も食べ物も入っていて、のどが渇けばすぐ飲めて、腹が減ればすぐ食べられる。

理想郷は部屋の中にあった。

私は湿った服を脱ぎすてて、熱いシャワーを浴び、布団を頭からかぶって夜まで眠るのだった。

7月1日 へたっぴマンがくるぞ

昨日から絵の練習を始めていて、そんなに取り返しのつかないほど下手ではないなと思ったので、どんどん書いてどんどん人に見せていこうと楽しく落書きにいそしんでいた。

しかし、ちょっと昨日より丁寧に書いちゃおうかなと思ったとたん筆が全く進まなくなり、なんてことない人間の男を書こうとしただけであっという間に時間が溶ける。

このまま徹夜しても下書きすら終わらないぞと感じてぞっとして、とりあえず一時中断し、ブログを書いている次第である。

 

昨日は顔だの手だの、どう書いていいかよくわからないものに関しては何となくごちゃごちゃ書いてごまかしていたのだけど、今日は丁寧に書くためにお手本の画像を並べて書いた。

これまでの「自分が見てわかればよい」という基準が消え去ってしまい、正解と比べてよいか悪いか判断するようになったので、はっきりと下手さが際立つようになって、妥協のしようもないので無制限に時間がかかる。

私はこれほどまでに物分かりが悪かったかと愕然するほどに、何度繰り返しても指の形すら覚えられない。

見て覚えて書くのは難しいと考えて、「握りこぶしは腕の何分の一で~」などと、理詰めで頭に叩き込もうとしたのだけど、覚えた割合の通りに書いても全く思い通りにならない。

そもそもまっすぐの線が引けないこととか、途中でちょちょっと楽をしてしまう癖がどうしても抜けないこととか、書けば書くほど出るわ出るわで、絵がうまくないとは思っていたけどまさかこれほどまでに才能がないとはと驚くばかりであった。

 

もう少し基礎的な、「素振り」的な練習を取り入れて、手の震えを取り除くことから始めようと思う。