7月3日 時間をドブに捨てるにしても良いフォームで捨てた方がいい

ハーバードだ、海外の論文だ、などと言われると典拠もみないですっかり信じ込んで、理屈がどうとか全く考えずに驚くべき事実だけを自分のものにするくせに、幽霊だ、前世だ、などと言われたときにはハナから信じるつもりもないような顔で一蹴する。

映画だとかお化け屋敷だとかは人並みに怖がるし、夜道を歩いて遠くにぼんやり何かが見えたりすると不安にもなる。

しかし、その辺の人がまるで見てきたかのようにおどろおどろしく幽霊の話をしているのを見ると、「お前、なにがねらいだ?」と唇に糸が引くように笑って相手の魂胆のことばかり考えてしまい、そうなるともはやその人の声なんて耳には入ってこなくなる。

自分のこういう態度を客観的にみるとろくでもないなと思う。

こういうことをすぐに言うわりに好き嫌いをすぐに決めてしまうのはあまりにも自分勝手であるから、自分の好みを少し見つめて分析し、物を見るときの一つの指針として信頼のできるものに作り替えていく必要がある。

 

 

科学は信じ、自分の感覚も信じ、金のかかったフィクションには感情移入し、プロの怪談なら最後まで聞くのに、どうして幽霊の話をするその辺の人にはあたりがきついのか。

何を受け入れて何をはねのけるのか自分の中で一つ一つ分類してみたところ、私が目に見えないものを受け入れないときにはその伝え方が「露骨」であると判断していることが分かった。

つまり、ネット記事だろうが「フィクションです」と書いてあろうが、「単に怖い話をしている」ように見えるならばわりに受け入れやすいのだけど、怖い話を怖がりながらしゃべっていたり、「まあなんてことない話なんだけどね」とでも言いたげな表情を作っているのが伝わってきたり、内容の外側の「作為」が見えてしまうと引いてしまうのだ。

 

 

金のかかったフィクションならば「わざとらしさ」は排すだろうし、プロの人も話の上手な人もわざとらしくならないようにしゃべれるが、その辺の人がみんなそんな技術を持っているわけもなく、他人に話を披露する時に良かれと思って付け加える演出が裏目に出て、(たとえその人の目に本当にお化けがうつっていたとしても)「お前俺を怖がらせようとしているな」と聞き手に警戒心を与えてしまう。

これは日常会話でも、あるいはホラー映画でも漫画でも小説でも同じで、もっと言えばありとあらゆるフィクションにまで拡張しても、面白くないと思うときにはいつでもわざとらしさを感じているのではと思う。

 

 

一連の分析の結果、物語は単なる物語であるべきで、どう生きるべきかとか人類はこうあるべきだみたいな思想も、楽しい・悲しいなどといった感情も、そういうのは内側から湧き出すから面白くて、見るもの聞くものの内面を刺激して気づいた時にはそういう気持ちになるように仕向けるならまだしも、「こう生きろ!」「こう思え!」と無理やり押し付けるのは面白くない、というのが私の好みであるとわかった。

「好みでない」とだけ言ってはねつけるのはあまり良い態度とは言えないから、「いかに好みでないか」について語れないのならその対象について語るのはよした方がよく、どうしてもその「好みでなさ」を語りたいのなら頭から終わりまでしっかり見届けるべきである。

匂いや食感が気に入らないことについて、口に含んだだけで吐きだして文句を言う人より、かみ砕いて飲み下してから文句を言う人の方が納得感がある。

食わず嫌いはもってのほかで、嫌いなら嫌いなだけの理由を示す必要があるから、とりあえずはそれが好きな人と同じように味わってみる。

意外とすんなり呑み込めて、気づけばその匂いに癖になってしまうことも時にはあるし、挑戦しないとその機会はないのだとすれば、ぱっと見だけではねのけるのは損である。

 

 

嫌なものは嫌で、最後まで見て面白くなる保証もないし、そそられなければ目をそらすのはなかなか止まらないとは思う。

それでも怖いもの見たさであっても見るものの幅が広がって、ものを評価するための目が鋭くなるならば、ときには挑んでみるのがよいだろう。