6月28日 救いを音楽に求める人の真似をしてみよう

「この曲を聴くと失恋した時のことを思い出す」と慣用句にもなっているように、五感と記憶との結びつきというのは多くの人にとって実感とともに自覚されており、全然調べてないがおそらくそういう心理学の論文とかもありそうだなという所感であるし、嗅覚ならばタバコの匂いから父親がスーパーロボット大戦をやっているのを横から見ていた時のことを思い出したり、味覚でも視覚でも結構いろんなことを思い出すのだけど、こと音楽に関しては私にはどうにもぴんと来ないというか、曲と特定のイベントが結びつくことが少なくて、上記のようなセリフを全部ウソだと思っており、目にするたびに「了解でーす」とつぶやいて鼻の穴から小さく空気を噴射するばかりであった。

昔聞いていた曲について、「中学の頃よく聞いたわ」とか「お姉ちゃんが好きだったやつだ」などと、ある程度の範囲を持った記憶が残っていることはあるし、文化祭とか体育祭とか、あからさまなイベントごとのBGMならばまだ「そんなこともあったな」と思うのだけど、私だけの記憶の中には音楽はない。


ここまで多くの人が同じようなことを言っているのを見るとこっちが間違っているのかもしれないな、と思うこともあって、湿っぽい曲の動画に「、」とか「。。。」の多いコメントがついているのを見てへらへらしながらも、白い目で見られるべきなのは私なのではないかと不安にもなるので、何かいやなことがあった時などには先人に倣って耳にイヤホンを突っ込むこともある。

しかし、落ち込んでいるときの私の心はギザギザにとがっていて文学との食い合わせが悪く、情緒的でしっとりとした歌詞だろうが明るくポップな歌詞だろうが、そのときの状況にしっくりくれば「おまえに何がわかるんだ」と歯を食いしばってしまうし、自分と関係なければ関係ないで「おれはいったい何をしているんだ」と部屋の隅を見つめてしまう。

であれば歌詞がなければいいのではないかと思って作業用BGMを検索してみるのだけど、そういうのが私に及ぼす効果と言えば環境音をかき消して脳内活動を活性化させることぐらいであって、脳みそが頑張っているときに聞いている音楽なんて全く覚えていないのである。

音楽とは元気な時に聞くものであるし、元気な時に積極的に音楽を聴いているならば、記憶に残るのは音楽そのもの、歌詞そのものであって、音楽と一緒に何かが記憶に残るということもない。

そういうわけで私には好きな音楽はあっても音楽に関連するエピソードトークのようなものが全然なく、かといって音楽の構造などについての知識があるわけでもなくて、音楽は聞くだけ、私の頭に残るだけである。

音楽と一緒について回る情報と言えば、だれが歌っているかとか、何の主題歌だったかとか、何年生の文化祭で使ったかとか、クイズみたいな記憶ばっかりで、この曲を聴くたびにあの人との別れを思い出すとか、つうっとひとすじ涙が流れてしまうとか、自分しかわからない類の感情が想起されることはない。


楽しげに音楽についてしゃべる人々を見て私の不健全な態度は時とともにぐんぐん膨らんで醜くなっていき、もはやちょっと思い出をしゃべってるだけの人にすら膨らんだ鼻を向けるようになってしまったのであるが、いくら私が彼らのことをくだらねーと言ったところで、私への評価はニヒルで知的なクールガイなどにはならず、嫉妬まみれの逆張りバカがいいとこである。

こうやって思考を文字に起こしてみて客観的に見てみると、自分でも逆張りバカが嫉妬しているように見えるし、もうへこんだプレートをひっくり返して盛り上がっていると言い張るような、思春期のようなことを大げさに言うのはやめて、わざわざ周りをにらみつけたりせずに自分だけのために音楽を聴かないといけないなと思う。


くるりを聞きながら夜道を歩いてみるだとか、それっぽい聞き方をしながら慣らしていけば、そのうちすっごいいやなことがあった時なんかもそれっぽい音楽鑑賞チャンスとすることができて、心の傷を未然に防ぐことができるかも、という仮説を立てた。

やっぱり「みんなみたいに音楽に救われた話をして悦に浸れるようになるぞ」と、逆張り嫉妬バカの打算的な部分が顔をのぞかせているきらいもあるが、まあ全体的に見ればここぞというときの心のよりどころを音楽に見出すような、精神衛生上においても何らかの効果がありそうだし、なんにせよはじめはかっこつけでもあとあと硬さが取れて本人の性質になるようなこともあるので、とりあえず挑戦してみようと思った。