6月5日 知らん人の歌を聴く

Twitterを始めて間もない時などは、同時期に携帯で音楽を聴く文化を身に着けたこともあり、気に入ったアーティストなどいれば、片っ端からフォローしたものだが、今では一部を除いてまとめてフォロー解除してしまった。

歌詞に胸を打たれたり、声が頭から離れなくなったりして、繰り返し繰り返し聞いて、すっかり覚えてしまった歌があって、同じアーティストの曲をどんどんダウンロードして、アルバムもシングルも聞いて、ファンになったその流れで、ツイッター上に本人のアカウントを見つけて、ファンらしい態度でフォローしたのだけど、たいていのツイートはライブの宣伝で、新譜やメディア出演の情報も時にはあったが、音楽について詳しくしゃべる知識もないのでファンの友達などもおらず、一人でライブに参加するほどの度胸はなく、新譜については出ればどっかで知るだろうし、テレビやラジオに出たのを知ったとして、その人がしゃべっている様子を、そんなに見たくないかも、と気づき、フォローする意味について考え始めて、これはいかんと思ってフォローを外した。

最近よく思うのは、歌でも小説でも、とくに自分の繊細な感情に干渉しているような作品については、その製作者について、人となりなんて知ってもあまりいいことはないのでは、ということである。
今ではありとあらゆる人が各種SNSを利用しており、その利用法も、かつてと比べてずっとパーソナルな面についてフォーカスするようになって、飲み会の写真だとか、時には仕事に関する考え方なんかもいうようになっている。

私はどうにもそれが受け入れられなくて、そっちから知ったのなら、その人の言葉や生活を見て楽しいうえに、作品も楽しめるから、まだいいのだけど、もし作品から知って、それでその人のツイートを見て全然面白くなかったりしたら、本来感動できていたものが全く頭に入ってこなくなるのではないかと思う。
私は作品を自分の見たいように見ているわけで、作者についてあまりに知ってしまうと、その答え合わせをすることになってしまうわけで、融通の利かない作品にしてしまう。

私の頭の中にあった、自分勝手だが確かに私の心のどこかをふんわり埋めていた作品世界が、その人が「こう読め」と言っているのを見た途端に、はっきりとした輪郭を持つようになって、固形物ゆえにどうにも隙間にかみ合わず、こちらから投げ捨ててしまうのであった。