授業のメモ 

『竜』芥川龍之介の授業メモ
 
典拠(宇治拾遺物語)とのちがい
・原文では結局竜が飛ばない 
・600文字ぐらいだったのが9000文字ぐらいに膨れ上がっている。
 ・噂話が広まっていく詳細な描写はない
など
 
鼻 新思潮 1916(大正5)二月
竜 中央公論 1919(大正8)五月
 
なぜ最後に禅智内供の話を挿入したのか?
メタ?
竜では翁による語りという構造の中で宇治拾遺物語に元ネタがあることが示唆されている→大きく改変して一つの作品に仕立てているということが調べればわかる。
陶器造の翁は、なんで内面の描写がこんなに細かいのだ、本人に聞いたのか?とでも言いたくなるようなことを言う。作り話か伝え聞いた話か、どんどん白熱していく。
翁が語るのは何気なくついた嘘が周りの人間によって尾ひれがつきどんどん過熱していく話であるが、一歩後ろから見るとこの翁による誇張の入り混じった語りがほかの人に伝わっていくというのも構造的には同じ。
 鼻も同じように伝えられ、その上小説としてまとめる過程で面白くなるように改変している。
ありとあらゆる物語について同じことがいえるということ?
 
恵印法師の虚構が人々によって尾ひれがついて肥大化していく。
その肥大化した話を翁がダイナミックに誇張して語る。
物語が物語集に収められるにあたって何か誇張があっただろう→その作品をアレンジして発表する小説家。
 
少なくともこの小説それ自体については入れ子の構造になっている。
 
 
 
行人から聞いた説話を集めて宇治大納言物語を著した時の話。11世紀?
 
何、昔もいたかどうか分らぬ。いや、昔は棲んで居ったに相違あるまい。
昔は天が下の人間も皆心から水底には竜が住むと思うて居った。さすれば竜もおのずから天地の間に飛行して、神のごとく折々は不思議な姿を現した筈じゃ。
 (本文より)

 

心の底から信じている人の目に超自然的な存在が映ったとしても不思議ではない。
みんなが信じていて、見た、見たというならば、住んでいたと言ってしまってもよいだろう。
この描写は単なるバカ貴族としての態度ではなく、虚構を受け取る側の態度についてどこか示唆的なものでは。
 
芥川はもはや市民には忘れられている数多くの古典文学について、再構成して私たちの生きる現在でもなお受け継がれるほどの名作に仕立ててきた。