6月12日 それはまるで真顔でワロタと返信するような
「ものを思うこと」とそれを「文字に起こすこと」の間にはゆったりとした断絶がある。
喋るのと違って書くのには時間がかかるので、思考と発現の間のタイムラグはそれだけ多くなって、思ったことをそのまま書くと言ったところで全くそのままにはならない。
何かものすごい興奮をしてその熱をみんなに伝えようと思って、Twitterを起動して白い鳥が消えるのを待っているうちに興奮との距離がうまれ、いざ書こうとしたときには頭の中には余熱が残るだけである。
個人差はあれ、感情をそのまま文字にしているぞという意識にはいくらか嘘が混じっている。
例えば
「えまってまってまって!?これって伏線回収ってこと!?」
というツイートをするときには、異なる時間軸を無理やり一つの文章のうちにまとめるような荒技が使われている。
ある作品が驚きの展開を迎えたことにまずは素直に驚く。(えまってまってまって)
一瞬頭の中を整理してみて、その展開が以前の回の腑に落ちない点と結びついたことで「伏線回収」であることに気づく。(これって伏線回収ってこと)
驚きを表す「え」のあと句読点も入れずに思考を整理する時間を求める「まって」を三度も繰り返すことで、突然の出来事に考えがまとまらない様子を表して、そのあとに伏線回収ではないかと提言をのこすのだが、伏線回収であることを察して文字にしているのなら、それはもう思考に整理がついているわけで、もはや「え」とも「まって」とも思っていないし、「ってこと!?」とも思っていないのにも関わらず、思考に反して臨場感を残すために大袈裟な感情表現をしているのだ。
このように、一見感情的な文章であってもその裏は作り事に満ちていて、本当に「感情的」に書いたのならば、
「伏線回収ってことか」
としか書きようがないのではないかと思う。
私は「伏線回収ってことか」のような書き方をするのを好んでいて、そういう書き方の文章を好きになるが、これはただの好みであって、これ以外は全てクソだと言いたいわけでもない。
書いているときにはそう思っていないとはいえ、ファーストインプレッションで感情を揺さぶられたことをできるだけそのまま伝えるための工夫であるから、きっと効果的だし市民権を得た書き方であろうと思う。
ただ、そういう書き方をしていないからと言って、無感動というわけではないぞということを表明したかったのである。