5月30日 嫌な思い出を自分の声で打ち消す

実家から食材の入った段ボールが届き、その中には袋ラーメンなんかも入っていて、まあ、親の目線からしたら時間とか金がないときは、これで食いつなげという事なんだろうが、私はどうにも袋めんを上手に食べるのが苦手で、数回分の仕送りラーメンを、1、2袋つついたぐらいで、残りは積み上げている。

 

袋ラーメンは、珍しいものを除けば、基本的に具のたぐいは付属しておらず、パッケージ裏面の「よりおいしくいただくために」をみれば、チャーシューだのメンマだのを乗せよと書いてあって、でもそんなものを買いに行く時間があれば私はラーメン屋に行くし、もしチャーシューやメンマが自宅の冷蔵庫の中に突然降臨したとしても、私はそれをコメの上に乗せることを優先するし、ならば「素ラーメン」に甘んじるほかないだろう、というわけなのだが、一人暮らしを享受しつくし、各種専門店の具沢山ラーメンや、本格派カップ麺の味を知ってマセてしまった私の舌は、もはやスッピン具なしラーメン愛せおいしいと思わなくなってしまったのである。

ということをツイートしたところ、袋ラーメンがどうだの、親の仕送りがどうだのといった下らん話はすっかり私の頭の中から失せてしまい、私のチャーシュー欲がびんびんに刺激され、もはやチャーシュー以外のことを考えられなくなってしまい、どうにもよだれが止まらなくなってしまって、すぐにでも業務スーパーに行かないと、カラカラになって死ぬので、私はシャワーを浴び歯を磨いたのであった。


近所の飲食店は軒並み休業に追い込まれる中、意にも介さないようにごった返す業務スーパーで、肩をぶつけないように小さくなりながら緑のカゴに食材を積み上げていく。メモ以上のものを買わないように、できるだけ余計なことを考えないように店を一周すると、ソーシャルディスタンスを皆がうっすらと意識したおかげでやけに長くなったレジへの行列に並ぶのであった。

レジの行列というのは本当に最悪で、ただじっとして待つだけであるというのはもちろんのこと、アトラクションだのクレープだのの行列のような明るい未来への準備期間といった側面もなく、会計が終われば帰るだけの純然たる待ち時間であって、これから始まるなんらかのスペクタクルに思いをはせることもできず、ただぼうっとするだけの時間なのである。

私にはこのぼうっとする時間というのが本当に耐えられず、何故耐えられないかというと、頭のなかがゆっくりと回転して、古い記憶とか新しいアイデアとかがぐるぐるとかき回され、そのまま長時間放っておくと、高い確率でどこかでフワッと嫌な思い出にぶつかり、そこから先はもうそのことしか考えられなくなるからである。

私なんかは大人になった感覚が薄いのか、それとも高校を卒業してからの思い出があまりにも少ないのか、昔のことをいつまでも引きずっているタイプで、悔しかったり恥ずかしかったりした記憶は楽しい記憶を塗りつぶしてしまうわけで、自分の記憶を見つめたりなんかすると、絶対に中学高校の嫌な思い出にぶつかるのである。

大好きだった友達とクラス替えをさかいにだんだんと疎遠になり、遊びに誘おうにもどうにも勇気が出ず、そういえば教室や通学路以外で会話が始まることなんて全然なかったんだなと思い、自分のふがいなさを嘆いたり、誘わない向こうも冷たいだのなんだの責任をなすり付けたりするうちに、じわじわと時間は過ぎていく。ある日ふと廊下ですれ違い、どちらからともなく目をそらしてしまった瞬間に、何だか取り返しのつかないことをしてしまったような、胸の奥に空洞を見つけてしまったような気持ちになって......

みたいなことを思い出しそうになったので、いつものように「やだやだやだ......」とつぶやいて、頭の中から思考を追い出した。

私は行列に並んでいることを忘れていた。通話している感じを出して、その場は何とかやり過ごした。

ワイヤレスイヤホンを耳に突っ込んでいてよかった。ワイヤレスイヤホンって本当に便利ですね。