6月23日 溜めすぎて一人の部屋で口に出しそうになる
人前では言えないようなことをこっそり言うためにTwitterやブログをやっていたはずなのに、結局は人の目を気にして言葉を選んでしまう。
人の活動を見て矛盾しているところを見つけたり、すました顔をしてるけど流石にこれはダサいだろと思ったりするのだけど、それが全く関わりのない画面の向こうの人ならいいのだけど、お互いにフォローし合っている友達だったりすると、言って良いものかどうか悩む。
こう言うと、鍵のついたアカウントでも作って言えば良いだろうと言われてしまうかも知れないが、でもやっぱりそういうのって誰かには聞いていて欲しいし、聞いてもらうためにアカウントのIDをばらまいてしまえば、結局その中にいる人をどうこう言うことは出来ないしで、堂々巡りになってしまう。
信頼に足る友人とクローズドな、2人だけの通話なんかができれば、それも解決するのではと思いついたのだが、これにも問題点はある。
1つは、気分が良くなってくると、これだけ仲が良ければ良いだろうと思って直接相手の恥ずかしいところを刺激し始めてしまう点である。
結局は相手の懐の深さに依存する形になるわけで、何か起きたら悪いのはこっちになるのである。
もう一つは、
私はここでオチでもつけようかと思って「信用できる友人がいない点」みたいなことを書こうとしたのだが、何度か通話をした友人が見ているかも知れないと思って書くのをやめたのであった。
そういうわけで言いたくても言えないことというのは尽きないのだが、それもこれも、私がただ事実をそのまま言うことしかできないのが最大の問題であって、言われたほうが笑っちゃうぐらい面白おかしく言えるならば私の傷も少なくなるわけで、もっと面白く言えるようになるまで危険な話は封印しておく。
6月22日 歯車然としていれば社会の歯車になれると思っていた男
姉とline通話をしたところ、私の進路を心配するような話の流れになり、インターンでもやってみたらとそれとなく諭された。
私は全然興味のなさそうな顔をしながら、マウスカーソルを検索バーに伸ばしたのだった。
休学したのをいいことに、三年生のような顔をして就職活動など知らん顔して生きていたものの、そうはいってもそろそろ考えなくてはならんかなと思い、「未経験でも大丈夫」と標榜する某企業のインターンシップの募集サイトをひらいて、確認事項をいくつか入力し、いざ次のページへと進んだところ、「あなたがこれまでの大学生活で頑張ったことはなんですか」という欄にぶつかり、私はただ震えるしかなかった。
自分の今の状況を顧みて、学生というにはあまりにも何もしていないどうしようもなさにドン引きするばかりなのだけど、それはそれとして周りの忙しさを見て、どこからそんな活力が生まれるのかと、自分の愚鈍さを差し引いてもみんな忙しすぎであると思って、そっちはそっちでドン引きしている。
ただ生きているだけで、やれと言われたことをやってそのあと答え合わせをするだけで、なんだかんだ生き延びられたのであるが、最近はどうにも様子がおかしくなっている。
ベルトコンベア式の生き方においてはクラス内で私に並ぶものはおらず、圧倒的なロボット根性でなみいる模試をバッタバッタとなぎ倒し、みごと勉強大好きクンの称号を勝ち取り、クラスでの居場所を確保していた。
それで調子に乗った私はクラスの誰もいかないような難関校を受験し、合格したはいいものの、高校のベルトコンベアの終着点にたどり着き、また新しいコンベアが現れると思ったら、大学というのは思いのほか学生の自主性に任せるものであり、これまで流れに逆らわないようにじっとしていることだけを極めてきた私は、突然の変化に体が耐え切れず、間もなく落ちこぼれていったのである。
学校の外で何かしたことがあるだろうかと思い返してみても、「友達の付き合いで」が頭につくものばかりで、自分から何かしたいと思ったこともなく、自分から何かしたいことを思いつくことに関しては全くの素人であって、今完全に困っているのであった。
私の明日はどっちだ。
6月21日 これはおそらく5,6個目のブログ
大学に入学しノートパソコンを買い与えられてから、私はいくつかのブログを開設してきた。
しかし、はじめのうちは勢いよく書いているものの、開設して一か月もたたないうちにどんどんトーンダウンして閉鎖・自然消滅してしまうというのを繰り返している。
それらすべて、私のモチベーションの低下が原因となっており、なぜモチベーションが保てないのかと言えば、私の活動範囲、交友関係の狭さによって、書くことのできる内容に幅がなく、ブログ全体を通して、自分の内面の話一辺倒になってしまうからである。
しかしこのブログは私の開設したブログ史上最も長く続いているのだが、その内容に関してはやはり自分の内面の話が中心であって、なぜこのように長く続けることができているのか、疑問が残る。
今回は、同じような内容にもかかわらず続いているのは私の内面に変化があり、より複雑な思案ができるようになったからであるという仮説を立て、かつてのブログと現在の私の違いについて考察したい。
今回引用するのは2019年7月5日にハードディスクに保存された、当時運営していたブログの開設に際して、これから投稿を続けることの意義について意見を表明しようとした文章の下書きである。
まず本文を示し、「現在の私との意見の違い」を注釈で抜き出し、それらを分析することで、私の内面の変化を証明する。
本文
退屈な人生とはこういうことかと思うような日々が続いている。
必須の予定はたくさんあるのだけど、どうにもやる気が起きなくて後回しにしている。
後回しにしつつもその予定がこちらを見つめているような感覚が常にあって、思い切って羽目を外してしまうのは封じられている。自分の無意識の中ではどうにも「羽目」の担当する範囲が大きく、海外旅行とかならまだしも、スポーツとか読書でさえ集中を阻害されていて、空いた時間にやりたいなと思っていることを全然始められない。
代わりにやることと言えばことごとくTwitterやYouTubeなどの「浴びる娯楽」だ。ほとんど何の労力もなく笑えるが、そのあと自分の中に残るものといえば、あれもできた、これもできたと過去の自分を責め立てる材料だけなので、本当にやらないほうがいい。(しかし、思いながらもやる)
忙しさから目を背けていることに対して自ら罰を与えるかのように、少しでも労力の必要な趣味をそうでない趣味でぬりつぶしていった結果、余暇がすべて同系色でまとめられ、全体的に退屈なトーンに支配されているような、そういう日々を生きている。
退屈が行き過ぎて哲学的な思考に到達して、ステキなエッセイの一つでも書けるのならば退屈も悪くなく、人生のレールをそっちに切り替えてひねもすごろごろ寝っ転がって、文筆に励むようになるだろう。本当にそういう才能があったらよかったんだけど……。
退屈っていうのは忙しさに関係なく変化のない生活を過ごしているときに感じるようだ。それを解消するために必要な変化は「新しい動画が上がった」みたいな与えられる変化だけでは不十分で、「動画を作ってみよう」みたいな自ら発生させる変化を含めたものらしくて、(ワンパンマンの最新話を楽しみにしている人でもいっそ死んでしまいたいと繰り返し言っていたりする)今の自分に必要なのもそういうタイプの変化なのだろうなと考え付いた。
毎日寝るまでになんとか時間を作ってまとまった文章を書こうと思う。本当にしんどかったらツイートみたいな長さでもいいから書こう。そのうちネタが尽きてきて、自分から変化を求め始めて変なことをし始めるだろう*1
それはそれでよくない兆候のようにも思えるが、まあ、今のどうしようもない状況よりはましだろう。
脚注
*1 別にそうでもない
おわりに
今回の考察によって、私の内面にはここ数年で大きな変化はなく、このブログが続いているのもほんの偶然であるということが明らかになった。
モチベーションの低下による閉鎖を防ぐためには、内面の変化のような形のないものに期待するのではなく、自発的に何らかの新たな活動をすることが必要である。
6月20日 一年後、私の悩みを受け止める人はどこにもいないのであった。
自分がいま何歳なのか免許証を見ないとわからなくなってしまったのだけど、今確認したところ私は22歳で、順調にいけば今年度で大学を卒業するはずなのだけど、どういうわけだか私は来年度以降も大学に籍を置くことになっていて、これに関しては時空がねじれているとしか考えられないのだが、とにかく私の卒業はまだ先であって、就活か進学かといった大学4年生にありがちだという諸問題については、今のところ実感がない。
何となくベルトコンベアの上に乗って、学生以外の名義を持たない人生を送っていると、必然的に知り合いは同年代に限られてしまう。
これまでの人生の節目には、同じような悩みを抱える人間と語り合って、具体的な解決策が浮かぶわけではなくても、何らかの慰めを得てきたものであるが、上記の通りここ最近私の周りの時空はねじれていて、一年ほど先を生きているのではないか、と思うような、なんだかよくわからない悩みについて私以外のみんなが話していて、ときたま通話でもすることがあると、全然何を言っているかわからずに、「まあね~」「しょうがないよね~」などと当り障りのない相槌を打ちながら、へらへらするほか何もできないのである。
進路に関する悩みに起因しているのか、そもそも気分が落ち込んでいる人も多く、漠然とした悩みに関しては、私にも関係のあるものであって、私の立場から言えることもあろうとは思うのだが、それでもやっぱり何にも言えずにへらへらするばかりなのだった。
私は、何をするにも相手の立場になって考えることが大事である、とは思っているが、それは自分の行動へのフィードバックの話であって、悩んでいる相手に対して「こうしたほうがいいんじゃない」などというのは、自分のやり方を押し付けることになってしまうのではないかと思って、できない。
他人である以上完全に同じ立場からしゃべれるわけではなく、はたから見れば取るに足りないことで、周りから見れば簡単だと本人も理解していることであっても、何故だかてこずってしまうというようなことは実体験としてあって、同僚や上司のような同じ目標に向かって協力し合う関係であれば何か注文を付けることもやぶさかではないが、すでに違う道を歩んでいる友人に対してその道について言えることなど何もない。
こんな風に自分の中でなんだかんだ理由をつけて、「何もない」と言っておかないと、へらへら聞き流すだけの自分のふがいなさに落ち込んでしまい、悩みを聞いたこっちにも悩みを打ち明ける相手が必要になるので、何もないと言ったら何もないのである。
同じ模試を受けに行ったヤマダクンや、一緒に買い食いしたタナカサンなどが、なんだかよくわからない悩みと戦っている間、私は今日も元気にAPEXのチーターにブチ切れたかと思うと、肉を焼いて口いっぱいに頬張って、おなか一杯にして眠るのだ。
6月19日 メシ冷まし病
自分の胃袋がどのくらいの大きさなのか、肉なら何グラム入るのかいい加減覚えておきたいのだけど、この前は300グラム行けたけど今日は150も食べたら爆発しちゃった、みたいなことがままあって正確な値が取れなくて困った。
これってどういうことなんだろうと不思議に思いながら回復体位*で考えてみたところ、付け合わせを0グラムとして計算していたことがわかり、改めて自分の脳みそのシワの少なさを実感したのであった。
*回復体位
最近はすっかり写真を撮るために料理をするという現代病にかかっていて、以前の私ならば荒々しくも肉と米だけの食卓に、飯の温度を1℃も落とすまいと言わんばかりの速度で低空タックルを決めていたものであるが、今となってはアスパラだのトウモロコシだのを見栄えのためだけにわざわざ用意して、一口コンロゆえに同時に温めることができずに肉を焼いたフライパンを使わざるを得ず、冷めた肉の乗った皿にみっともなくも肩をちいちゃくしながらアスパラを積み上げ、撮影し終わればレンジに突っ込んでいる。
こんな大人になりたくなくて勉強してたみたいなところ、あるのにね。
6月18日 キャンセルするなら削除を押せよ
twitterの下書きがたまっているので、いくらか紹介してそのまま削除しようと思います。
・「どれだけ時がたっても色あせない作品」というのが「全体的には今見ても問題なく楽しめる作品」のことだとすれば、そういう作品はたくさんあって、三四郎はそのうちの一つだが、局所的にみると、ヒロインが「ストレイ・シィープ......」とつぶやくシーンは
→夏目漱石の『三四郎』に登場するヒロインが主人公を迷える羊に例えていうシーンを見て、その描写がふざけてるように見えて、そのことについて言いたすぎて全体的だとか局所的だとか思ってもないことを言いそうになって途中でやめたツイート
・「過激なことを言いますので」みたいなのを事前表明してるんだから、非難するリプライに対して、「自分の過激さがゆえに攻撃されているのだ」みたいに割り切って無視しちゃうぐらいに頑固なキャラを貫けばいいのに、そういうこと言う人って絶対熱をもって反論するよね
→Twitterの自己紹介の欄に「出る杭は打たれる。しかし意思を曲げるぐらいなら死んだほうがましだ。」みたいなことを書いてる人がいて、その人が自分の政治についての思想を書いたツイートにいくつか反論のリプライがついていて、その5,6ツイートぐらい空リプで愚痴を言ってたのを見て、ダッセーと思ったときの下書き。
特定の人について何か言うのも角が立つとおもって一般論みたいにしてるのが逆にダサいし、一つのデータから言おうとしてるから全然あるあるになってないし、人のふるまい方に対して講釈を垂れられるほどできた人間ではないしでツイートしなかった。
・漫画みて「しゃべり方不自然だろ」と思って読むの辞めちゃうことが多かったけど、よく考えたら現実でも自然なしゃべり方できる人なんかそんなにいないな、おれが間違いだな、と気づいてからは平気
→語尾がおかしかったり、「フハハハ」みたいに笑ったりするのが苦手であるということを書いた。ネガティブなことを書くと嫌な感じに映るかもと思って、現実というか自分の身近な人にスラングとか漫画の言葉の受け売りでしかしゃべれない人が多いことを引き合いに出して自分が間違いだったという締め方にした。
しゃべり方が不自然な漫画も、口を開けば勝たん勝たんいう人も嫌だし、そもそもその二つに相関関係はなく、全体的に嘘なのでツイートしなかった。
・夢を見てるのが一番楽しい
→夢が面白すぎて二度寝が止まらなかった時期の下書き。
夢の面白さってものすごく主観的だからこんなこと言ったってしょうがないな、と思って却下。
・死んだときに泣いてくれる人が何人いるかって考えて、割に合わないから生きてる。
→本当は死ぬこととか普段全く頭になくて、死んでないから生きてるだけなのに、うまい事言おうとしててうるさいから下書きにとどめた。
・友達が同じもの好きだったらうれしいぐらいで、いろんな人にもっとこれを好きになってほしいみたいな感覚は弱いかも おれが好きならいいし
→自分が気に入ってるものに対して「もっと評価されるべき」みたいなコメントがついていると気分が悪くなる、というのをマイルドに書こうとしたら完全に嘘になってしまった。
「俺が好きならいい」とはおもっていなくて、「おまえらは黙ってみとけ」と思っている。
・最近なんだか以前にもまして人肌恋しいんだけど、寒すぎて掛布団を抱いて寝られなくなったせいだと思う
→冬に書いたもの。暖房をつけて抱いて寝てたのにうそをつきかけた。
・この人っておれのことあだ名で呼ぶんだ
→という思い出。
・しいて言うならデイジーがタイプかもしれん
→誰もタイプを聞いていないのにしいて言っている。
・戻ってこい、おにぎり女
↔それいけアンパンマン
・太った外科医、メスブタ
→最低
同じくクソみたいなダジャレとカッコつけようとした嘘が合わせて3、40件。
下書きにまで残しているところを見るに、書いた瞬間はあんまり悪いと思っていない様子がうかがえます。
報告は以上です。
6月17日 リビングデッドライター
何かまとまった文章を書く時には、どんな内容にするか書きながら考えている。
これはあまり健全な方法ではなく、事前にテーマを据えて大まかな構成を立てられるのならそれに越したことはないのだけど、それができるのは書くことがたくさんある人だけであり、ネタ切れにあえぎ無から有を生み出し続けることを余儀なくされた私には、そんな贅沢なことを言う余裕はないのであった。
これは私特有のものなのか、それとも世間一般に人間とはそういうものなのかわからないが、書くことがないとは言っても無理やり絞り出せば10文字ぐらいはにじみ出るわけで、あとはその搾りかすが意味を持つ文章になるまで片っ端から言葉をつなげていけば、決められた文字数を埋めるぐらいはできるのである。
線を引いては消すのを繰り返し、ぐうぜん美しく引けたものだけを残すことでイラストを描いているようなもので、当然いつかは書きあがるが冗談みたいに時間がかかるし、途中からは終わらせることばかり考えるので、全体の構成までは目が届かず、当然完成度は低くなる。
事前に何も考えなくてもよいというただ一つだけの利点のために、文章の質を置き去りにしている。
私にとって文章を書くということは書き直すということで、時間を無制限に使ったゾンビ戦法によって意味を持った文章であると判別できる状態にまで持っていくことが常態化している。
しばらく毎日日記を書いているが、日付をまたいで書き始めるとどうにも難産になる。
それもやっぱり早く終わらせることばかり考えてリテイクするのをめんどくさがっているせいである。
書きたいことが先にあるときはもう少してきぱきと書けるし、なんなら昼には書いて予約投稿するぐらいなのだけど、ここ最近は想像力の泉が枯れてしまって、村は干害にあえいでいます。
本格的に日記然としたその日の記録にシフトすれば、私の生活を鑑みれば二日目でネタが被るし、思いついたことを片っ端から書いていけば、とても公衆の面前にさらせるような文章にはならないしで、毎日毎日形のないものにはりぼての肉体を与え、勝ち目のない戦にゾンビ兵とともに挑み続ける日々は、もう少し続きそうである。