6月21日 これはおそらく5,6個目のブログ

大学に入学しノートパソコンを買い与えられてから、私はいくつかのブログを開設してきた。

しかし、はじめのうちは勢いよく書いているものの、開設して一か月もたたないうちにどんどんトーンダウンして閉鎖・自然消滅してしまうというのを繰り返している。

それらすべて、私のモチベーションの低下が原因となっており、なぜモチベーションが保てないのかと言えば、私の活動範囲、交友関係の狭さによって、書くことのできる内容に幅がなく、ブログ全体を通して、自分の内面の話一辺倒になってしまうからである。

しかしこのブログは私の開設したブログ史上最も長く続いているのだが、その内容に関してはやはり自分の内面の話が中心であって、なぜこのように長く続けることができているのか、疑問が残る。

今回は、同じような内容にもかかわらず続いているのは私の内面に変化があり、より複雑な思案ができるようになったからであるという仮説を立て、かつてのブログと現在の私の違いについて考察したい。

今回引用するのは2019年7月5日にハードディスクに保存された、当時運営していたブログの開設に際して、これから投稿を続けることの意義について意見を表明しようとした文章の下書きである。

まず本文を示し、「現在の私との意見の違い」を注釈で抜き出し、それらを分析することで、私の内面の変化を証明する。

 

 

本文

 

退屈な人生とはこういうことかと思うような日々が続いている。

必須の予定はたくさんあるのだけど、どうにもやる気が起きなくて後回しにしている。

後回しにしつつもその予定がこちらを見つめているような感覚が常にあって、思い切って羽目を外してしまうのは封じられている。自分の無意識の中ではどうにも「羽目」の担当する範囲が大きく、海外旅行とかならまだしも、スポーツとか読書でさえ集中を阻害されていて、空いた時間にやりたいなと思っていることを全然始められない。

代わりにやることと言えばことごとくTwitterYouTubeなどの「浴びる娯楽」だ。ほとんど何の労力もなく笑えるが、そのあと自分の中に残るものといえば、あれもできた、これもできたと過去の自分を責め立てる材料だけなので、本当にやらないほうがいい。(しかし、思いながらもやる)

忙しさから目を背けていることに対して自ら罰を与えるかのように、少しでも労力の必要な趣味をそうでない趣味でぬりつぶしていった結果、余暇がすべて同系色でまとめられ、全体的に退屈なトーンに支配されているような、そういう日々を生きている。

退屈が行き過ぎて哲学的な思考に到達して、ステキなエッセイの一つでも書けるのならば退屈も悪くなく、人生のレールをそっちに切り替えてひねもすごろごろ寝っ転がって、文筆に励むようになるだろう。本当にそういう才能があったらよかったんだけど……。

退屈っていうのは忙しさに関係なく変化のない生活を過ごしているときに感じるようだ。それを解消するために必要な変化は「新しい動画が上がった」みたいな与えられる変化だけでは不十分で、「動画を作ってみよう」みたいな自ら発生させる変化を含めたものらしくて、(ワンパンマンの最新話を楽しみにしている人でもいっそ死んでしまいたいと繰り返し言っていたりする)今の自分に必要なのもそういうタイプの変化なのだろうなと考え付いた。

毎日寝るまでになんとか時間を作ってまとまった文章を書こうと思う。本当にしんどかったらツイートみたいな長さでもいいから書こう。そのうちネタが尽きてきて、自分から変化を求め始めて変なことをし始めるだろう*1

それはそれでよくない兆候のようにも思えるが、まあ、今のどうしようもない状況よりはましだろう。

 

 

脚注 

*1 別にそうでもない

 

 

おわりに

今回の考察によって、私の内面にはここ数年で大きな変化はなく、このブログが続いているのもほんの偶然であるということが明らかになった。

モチベーションの低下による閉鎖を防ぐためには、内面の変化のような形のないものに期待するのではなく、自発的に何らかの新たな活動をすることが必要である。