6月1日 

つくづく思うのが、私というのは生粋のインドア人間という事である。
友人も少なくサークルにも所属しておらず、ゲームして飯を食って寝るだけの日々を過ごしているので、特段面白いことなんて起こらないわけである。

そんなわけで、ブログを書くぞといきり立ったときは、ブログを書くことそれ自体だとか、昔の思い出だとか、その日食った飯だとか、そういうものをネタにするしかなく、思いだして書くに値するようなゆかいなエピソードには限りがあるし、飯なんか一回料理すれば数日同じものしか食べないし、食事というテーマで何らかのエッセイを書くならまだしも、特定の料理についてそんな長々と感想を垂れられるような感性を持っていない。

ブログを書く勢いが続くのなんて一時的なもので、わざわざ書くほどのことがないな、とか言い訳が思いついてしまう程度に書いてしまえば、あとはだんだんとなあなあ・・・・になっていき、そのうち自然消滅するのである。

これは大学に入学した時あたりに自覚したことであり、これまでに無数のブログがこの性質のために浮かんでは消え、電子の海を少しづつ汚してきたのであるが、この外出自粛が喧伝される中、ただでさえ激しい私のインドアにも、これまでにないほど拍車がかかるわけで、家の中で生まれるブログのネタなんてたかが知れているし、なまじっか無数にブログを作ってきたり、思ったことをTwitterに垂れ流したことがあだとなり、内面的な話題ももはや底をつきかけていて、そんなわけで私は、古今東西の素人ブログを死に追いやってきた、「ネタがない」という劇薬に手を出したのであった。

この世界には、対象物を深く見る能力があって、それがある人は、その目を持たない人が一瞥しても素通りするだけの小さなものについても、面白がるための何らかのフックを見つけて、それで遊ぶことができる。
そういう人はなんにせよ、例えばブログをやっていたとして、ネタが尽きることなどないのである。

その能力は、私にだって多少はあって、でかいチャーシューなどというとっかかりだらけの物体についてなら、1000文字でも2000文字でも書きなぐれるわけであるが、私の目には、もはや家の中にはでかいチャーシュー以外のフックを見つけることができず、そんな毎日チャーシューのことばかり書くわけにもいかず、たとえ今日のチャーシューがいい出来で、煮卵も半熟に仕上がったとしても、それをネタにすることはできないのだ。

どこかでダムが決壊して、ブログを書くよりAPEXをした方が面白いぞ、と、改めて思ってしまえばそれまでである。審判の日はもう、そこまで来ている。